今回は、以前シリーズ編でご紹介していた葵さんに、久しぶりに登場していただきます(チェックされてない方は、以前の投稿をご覧ください)。

 
前回の投稿で、Yさんに選んでいただいたテーマ「被害妄想とパニック」にも関連して、「被害妄想」について、葵さんの体験談をシェアしていただきます。
 
では、早速見ていくことにしましょう。

当事者の体験談より

ここでは、自覚はありませんでしたが私の中に確実にあった「被害妄想」と私の関連について書かせていただきます。
 
私は、自分の考えや意見を否定されると、自分自身(人格全体)を否定されたと感じ、自分を責めることがよくありました。
 
自分が悪いと自分を責め、苦しみながら、「相手に否定されることも自分が悪いからだろうから自業自得だ」と自分をより責めていました。
 
悲劇の中により浸りこみ、人と関わることが怖くなるのもそのような時でした。
 
そのような時でも、恋人や友人は私を否定することはなかったので、より恋人や友人への依存は育っていたと思います。
 
落ち込んでいる私に恋人や友人が気付き、心配してくれることで。否定されたことを話せることもあり、恋人や友人が私を心配してくれ、否定した相手を否定することもあり。
 
私自身を正当化できるような気にもなっていたのです。恋人や友人は私の味方をしてくれるのだから、その方の為に生きていたい、と依存は育ってゆきました。
 
依存する相手のいることで、自分のペースなど二の次になる私は自分をより見失い、その相手の都合のいい存在になろうとすることがよくありました。
 
自分が自分の為に立てていた予定をいつも勝手に崩していたので、それが積み重なり自分の為に予定を立てることを放棄し、自分の為という考え自体や自分の目標はどんどんと薄れていたのです。
 
被害妄想の話へと戻ります。
 
私を否定した、「敵」のように思えた相手に対して。大切な相手だったのに「否定された」、それが「あの方は私を否定しているのだ」と私の中で広がり、その方を敵とみなし。
 
それまでは気にしていなかった相手の悪い面をほりおこし、その相手を悪者のようにしたてあげてしまうのです。そして、これ以上関わることは無理、と勝手に私の中で思ってしまうことで、自分にとっては「大切に思えていた相手の部分」も目が行かずに、拒絶することしか出来なくなり、その方と離れるということも頻繁にありました。
 
それは依存していた方との間で起こることもあり、自分から離れることを選んだのにも関わらず「自分は何でもない存在」のようにその後虚しく感じていたのです。
 
今思うと、被害妄想がきっかけで誰かに依存することで、誰かの為に生きようとすることで。その後に待っているものは私にとって「他者に依存し続ける」ことか「拒絶することか」という2択しかありませんでした。それだけ、自分を見失っていたのだと思います。
 
対人関係での人との距離感が大切なことは理解しているはずなのに、被害妄想などで調子を崩すとそれを考える余裕もなくなり自分を見失うような対人関係を築くことはあると思うので、こちらのセンターで勉強させていただきながら、安全策も模索しながら身につけていきたいと思っています。
 

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いかがでしたでしょうか。
 
「被害妄想」と一言で表現しても、Yさんや葵さんの体験談のように、様々な意味合いが含まれていますが、この「被害妄想」の根底には、必ず自己否定感があります。
 
「誰かに悪口を言われている」「あいつが私をにらみつけた」「嫌がらせをしてくる」などの客観的証拠の乏しい被害妄想の襲来は、自分自身の心の中にある「自分はダメな奴だ」という自己否定感から浮上するのです。
 
パーソナリティ障害者に見られる比較的激しい被害妄想の多くは、他責に向くことが多く、親や家族がその対象に選ばれていきます。
 
以前の投稿でも解説しましたが、この「被害妄想」は放っておいたり、時間が経過すれば自然とよくなるものではありません。
 
適切な介入と心理ケアがなければ、思い込みや妄想が徐々に肥大化していき、現実検討(妄想と現実の区別)が働かないレベルにまで達してしまうのです。
 
ちなみに、自分自身で自分の問題に向き合えるようになったり、しっかりと悩み続ける姿勢が生まれてくると被害妄想は徐々におさまってきます。要は、他責から自責に変化してくることが回復の目安でもあるのです。